ハノイにやってくるまで、ゴキブリというのは見つける=やっつけるもので、嫌悪する気持ちは全人類共通、世界中どこでも人間がゴキブリを倒そうとしているのにしぶとくすばやいので消え去ることはないのだと思っていました。まさかこんなに身近なところで裏切りにあっていたとは、思いもしなかったのです。

初めておかしいなと思ったのはハノイを訪れて三日目、友達宅に間借りしていた頃、夜洗面所に行くと必ず小さなゴキブリが三匹いることに気づいたときです。それは電気を急につけても全く慌てた様子もなく、部屋の隅にいることもなく、ましてや素早く動く気配すらありませんでした。思い思いのところをゆったりと歩くゴキブリを見るのは生まれて初めてで、あまりに当たり前のように歩いているので、なぜか先客に出くわしたような気持ちになり、用だけ済ますとそそくさと寝床に戻りました。数日後、清々しい朝に天井から落ちてきたゴキブリが首周りを歩いているのを抜け毛がくすぐったいのと勘違いして鏡に写し、肩の上で触覚を動かしているゴキブリを確認したとき、信じていた共同戦線にほころびが生じているという疑いは確信に変わったのでした。

ベトナムの人がゴキブリと闘わない、放置するというのは私が知らなかっただけで有名な話らしく、その後のハノイ暮らしでも枚挙に暇(いとま)がない、変換を勝手に予測して糸満やイトマンを出すのを止めてほしいほどですが、ベトナムのゴキブリをご存知ない方のためにその特徴と人々の対応を私の恐怖体験を交えて書いてみましょう。
~特徴~
・大きい : 文句なく日本のゴキブリの比じゃなく大きいです。日本のゴキブリの標準サイズだと思う長さを親指と人差し指２本で作ってみてください。あと２センチ足すとベトナムのゴキブリの大きさがわかります。ちょっと嫌な気持ちになりましたね。
・車高が高い : 車ではないのですが、動物というのは通常の立位で床から肩の高さを背の高さとして計測するといいます。ちょっとうろ覚えです。ベトナムのゴキブリはそれが高いです。おまけに脚が長いので、走る姿は不器用で、ひっくり返ると起き上がれずに死んでしまったりします。堂々と歩くので退治をしている家に隠れて生息していることはあまりありませんが、ひっそり死んでいることはよくあります。
・悠々と歩く : 走る必要は感じたことがないようです。殺虫剤スプレーをかけられると一応走りだしますが、すぐにひっくり返ります。

~ベトナム人の対応~
・無視 : 部屋にいる、食堂にいるくらいでは目に入らないようです。
・デコピン : 食事中の食卓、邪魔なところにいるゴキブリは生きていようと死んでいようとデコピンされます。邪魔だから退いてほしいが、退治したり片付けたりする必要は感じないようです。しっかり指で持つほどは好きでないようでよかったです。友人は食卓でデコピンされたゴキブリが自分の方に飛んできて悲鳴をあげていました。私は管理のため自室にきた守衛さんがソファ裏でひっそり死んでたゴキブリにデコピンを加えて部屋の隅まで飛ばしたとき怒りを覚えました。
・退治を断る : レストランなどにゴキブリが出ることも珍しくありません。私も大抵は見ぬふりをしますが、あまりにテーブル周辺を歩いたり飛んだりするので、店員さんになんとかしてといったところ「ビントゥオン(普通のこと)」と言われました。同じ店員さんがあとで欧米人の団体客が入ってきたらこっそりゴキブリを退治しだしたので、密かにゴキブリを応援しそうになりました。この退治を断る手法はネズミにも応用されます。ハノイに来たくなくならないでくださいね。

このように無法地帯なのですが、前出のようにゴキブリ用殺虫スプレーは普通に売られていますし、駆除業者というのもいます。一度、大家さんが頼んでくれた業者は水で溶いた薬剤を背中に背負ったポンプからシャワー噴霧していて、作業後は部屋中がシャワーをかけたように濡れたものの、多くのゴキブリは死ぬことなくご近所のお宅に逃げ込み(逃げこまれた家のおばあちゃんは平気そうに笑っていました)、同日中にはまた部屋の中でゴキブリを見かけ、駆除剤で具合が悪くなったのは結局私一人だったんじゃないかというくらい威力のあるものでした。また、若い子にはゴキブリに悲鳴をあげたりする子もいます。最近は退治する家庭もあるということかもしれません。

最近読んだ本に聖書のアダムが動物に名前と役割を与えたという話から、ゴキブリには目に見えないような小さな食べカスを腐敗する前に片付ける役割がある、不潔なところではゴキブリのいる意義があるというようなことが書かれていました。だとしたらハノイでベトナム人がゴキブリをやっつけないのは生活の知恵といえるでしょうか。ベトナム人友達フオンちゃんに彼女が住む家の「共同の台所はみんながご飯を作るから不潔でゴキブリがでる」と言われ、みんながご飯を作るところなんだから台所は清潔にしようよーって心の中で叫んだのを思い出しました。一年前に引っ越してきたいまの私の部屋では大変ありがたいことにまだゴキブリを見たことがありません。今日はたくさんゴキブリって書いてしまいましたが、今後も見かけないで過ごしたいものです。