話を聞ける夫を目指して
最近は穏やかになりましたが、ハノイに来た当初はしょっちゅう夫婦で喧嘩をしました。代表的なトピックに「俺の話を聞けー」というのがあります。夫は妻の話を聞くのが大の苦手です。
もっとも本人にそのような苦手意識は微塵もなく、話を聞いていた証拠として私の話の一番最後部分をだいたい正確に繰り返してくれることもあります。が、経験上これは全く話を聞いていなかった人の反応です。私の母は温厚ですが、怒り始めると長い人でした。どうすると早く終わるか、変顔、反省しているふり、謝る素早さを追求するなど試行錯誤しながら聞いていたので、それも母の怒りを助長する原因だったかもしれません。怒られている最中に次の手段を考えてぼんやりしていると今の話の内容を聞き返されて非常に困った事態になるのですが、ぼんやりと聞いていても意外に耳に残っているもので、相手の言葉そのままなら言えるのです。逆にきちんと聞いていると自分でも相手の言葉を反芻しているので自分の言葉が混ざります。だからといって、その例を挙げて夫に詰め寄り、自白を強要しても事態を悪化させるだけでしょう。
イソップ童話の「北風と太陽」で太陽は旅人を暖めることでコートを脱がせることに成功し、北風との力くらべに勝ちますが、そもそも太陽が朝からしっかり働いていれば旅人はコートを着て出掛ける必要がなかったはずで、北風に力くらべを持ち掛けられた時点でほくそ笑んでいた可能性すらあるわけです。つまりこの寓話はただ優しさの勝利というだけではなく、心優しい太陽も勝利のためには意外と計略的に振舞っている、優しさと戦略を練ることは相反するものでないだけでなく、必要ですらある、ということを言いたいのだと思うのですが、その本気を出したときの太陽くらい暖かで計略的な目で夫の言い分を聞いていくと、夫のいう「話を聞いている」と私のいう「話を聞いている」はそもそもだいぶ違う気がします。
夫の聞いている:聞こえてるとほぼ同義。男脳は一度に一つのことしかできないと言いつつ、なにかしながら聞いていることが多い。視線は定まらないが、私を見ることはほぼない。相槌は打たない、これに関して理由は不明。聞き終わるとしばらく黙りこんで、それからおもむろに関係のない話題を始める(聞く作業が終了したためと思われる)。
私の聞いている:会話が成り立っている状態をいう。なにかしながらでいいので、ときどきは完全にこちらに向き直ってほしい。相槌は聞いていることをお互い確認するために必要、「うん」だけでなく話を深掘りするような「どうして?」「そうなの?」などが含まれると尚よい。会話なので、話し終わったあとの感想も必要。せっかく人に話したので、夫の感想や意見がほしい。「(私にとって)よかったね」「ふーん」などの私目線の感想やため息?だと感想の価値は半減してしまう。
夫は話を聞くというのを情報の入力と考えているのかも知れません。会話になっていないせいか、誰と話した内容か忘れて私に聞いた話を私に教えてくれるということもしばしばです。しかし、この「聞いている」スタイルが彼の友人や仕事仲間との間で通用しているとは到底思えません。相当に無礼な人間か無口な人だと思われること必至です。
会話をするために情報の入力(聞く)だけでなく出力(話す)もしようとすると、入力のみの場合より頭を使うことになるでしょう。家にいるとき、私の話を聞くときに、いわば省エネモードな聞き方をしているということは、よく言えば夫が家ではリラックスしているということになるでしょうか。
残念ながら、話を聞くことに関してはそのリラックスモードは許容できません。他のことはともかく、話をするのは一緒に暮らすために私としては牛丼の牛、ハムスターのハムと同じくらい必要なのです。友達がいるからいいじゃないと言われたりしますが、せっかく一緒に暮らしているのに話は聞けないから、外で友達と話して来てというのも少しおかしな話です。そもそも夫に対する依存度若干高めの私には到底無理な注文です。
夫に注文したいこと、それはもっと頭を自然に自由に使おうということです。
太陽の気持ちで要求をめいいっぱい下げていうならば、まずは「妻の話は笑顔で聞いてね」ってことでしょうか。脳は自分が笑っていると認識するだけで、つまり口角が上がっているだけで笑っていると勘違いして、リラックスするとか。夫が勘違いをしてコートを脱ぐかどうかは、また報告したいところです。
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